アニメーション作家 有吉達宏のブログ

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zoom RSS フラヌール調査2・006 

<<   作成日時 : 2015/01/25 19:11   >>

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大井町、二葉町近辺。
向かい合う姿勢を大切に書き起こしてみる。

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 見慣れた風景。でもその中での感覚を探ってみる。きっとまだ見ぬものが埋もれているはずだ。茎が美しい。生命力の象徴のように思える。葉の色はどうして心が安らぐのか。この植物も固有の時間、感覚を持っている。クローバー、若木との対比で見えてくるものがあると思える。鉢で区切られた土、根。かたちに収められても感覚はそこを超えていく。一つとして同じものがない過ぎていく風景。記憶の片隅に残っていく。右上の丸が印象的だ。かたちが消えそうで柔らかく優しい。全体を包み込んでいる。左のコンクリの表情も素敵だ。勢いを定着させている。その流れは計算されたものでなく粗野なもの。感覚にストレートに訴えかけてくる。プラスチックのカゴの穴も面白い。中のものが何かはわからないけれど、それがはみ出てくる。重さから自由になった物体。それらが植物の印象に集約されていく。これらは暖かい、そんな感覚を抱く。左下の植物は助演であり、主役でもあると思える。イメージは入れ子になり、相乗効果を産み、総じて感覚に訴えてくる。黒のプラスチックは冷たい。海の水のようだ。

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 数字が気になる。2、3、5。数字によって喚起される印象というものがある気がする。太い幹のような感覚。白いコンクリは忘却を呼ぶ気がする。乗せられたタイヤ止めのコンクリが記憶に重しのように乗っている気がする。空虚な印象もある。忘れられた土地というのはこういう感覚を持っているのではないだろうか。柵の向こうにつくられた自然が浮かぶ。どのような調和が生まれているのだろう。音にしたらどんな感じだろう。感覚が区切られる。2、3。そこに痛みはない。抵抗なく切れていくケーキのように、時間が、空間が区切られる。左の地面を引っ掻いたような傷は、そのまま頭の中で何かを引っ掻く。優しくはない。ただそれは絶対的な感覚としてある。様々な感覚が区切られる。2、3。

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 漏れ出たような草。何か嘔吐されたかのような。植物はそれとは別のかたちも持っている気がする。どこか遠い記憶に、どこかで繋がっている。下の地面の斑点も面白い。頭の中の記憶にポツポツと雫が垂れるような。コンクリ塀の黒い点々は謎だ。病のように身体に、心に浸透してくる。柵で区切る。削れる。その情動はどこへ伝わっているのか。知らないところ。知っているところ。草の細さが感覚に繊細に作用する。草は何か知っている。それはそれに対応する自分も何か知っているということ。不思議が自分の中にある。写真が、風景が、実感が、それを浮き立たせる。実感させる。

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 強い写真。シンプルな単位に様々なものが引き込まれる。自分の感覚がそこへ流れていくようだ。円形はブラックホールのように様々を引き入れていく気がする。画面下の小さな円が、記憶のどこかに作用している。鉄柱の付け根の白の流されたコンクリが脳に浸透する。ガムの跡のような染みも頭の中に付着する。身体に染み入るそれらは、直接害のようなもの、益があるようには思えないが、そのようなコミュニケーションは、生活の上で、また制作の上で、隠れながら大きく作用している気がする。上のマンホールが見えていなかった。見落としたもの、目では見えているもの、どういう風に感覚に作用しているのか。ほとんど無意識の中に作用していると思える。それを見つけたとき、感覚のない傷のようなものが発見されると同時に、新たな未知の感覚が流れ入ってくるような気がする。白は記憶を、感覚を柔らかくして溶け込ませる効果があるように思える。溶け込んだ先というのは何があるのだろうか。風景を消費するとはどういうことなのだろうか。風景は絶えず情報を流してくる。ただその流れを感じ、繋がっていき、感覚が溶ける。それは物亊に意識を通わせる作法のような気がする。精神はものと相互に関連していると思える。

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 鉢の上に置かれた鉢。展示されているように見える。鑑賞と観察、視認、視野に入ることには、意識の在り方は違えど、脳は同じように情報を収集していると思える。同じようにではないかもしれない。人が意識を集中させる時、ものはどのように見え方を変えていくのだろう。ものを見る行為にも何段階にもレベルがある気がする。ものと繋がるというのはどんな心持ちだろうか。でもその感覚は、常にあるような気もする。ものと人は常に繋がっているというように思える。精神というものは、溶けていくアメーバのように他のものと連関しているものだと思う。切り離して考えることは難しい。鉢の中の網は、そのような精神の象徴的な記号として見えてくる気がする。より精神をものに密着させていくような。そこでは空気感が重要になってくる気がする。ものの表面を通る時の質、外気の温度、湿度、そのようなものが鋭敏に感覚を刺激し入り込んでくる。あらゆるものが常に感覚を垂れ流しているような気がする。ハーモニーは複雑だ。リテラシーして新たなメロディーにまとめあげることはできるかもしれない。だが整頓されたものは勢いにおいて劣ると思える。できるだけそのままというのが大事だと思える。自分が感覚の通り道になるような。

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 白が目に痛い程強い。記憶ではなく単純に刺激として脳にダメージを与える気がする。でもその強さは父性のようにも思える。感覚を束ねる。そんな圧力。白が反射している。中間の層、母性に近いような、そうではないような。強すぎる刺激は大きすぎるもの,海のようなものを連想させる気がする。人にとって海はどんなメタファーを持っているんだろう。視認できることで、完全に無意識の象徴ではないと思える。でも海がある惑星と、そうでない惑星の住人とでは感じるものの質に大きな差が生まれるような気がする。感覚は、人間は、あらゆるものと連関している気がする。出会ったもの全てが巻き込まれているような。同時に進んでいるような。

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 金氏徹平さんの作品を思い出した。全てのものに意識が通っているとして、日用品は強い媒介物となっている気がする。それを少し変えるだけで、意識は、無意識はメタモルフォーゼをせざるを得なくなる。その感覚は強制に近いと思える。
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 どんな変化があるのか。それは造形物によって変わると思える。中心から生まれる動き、どこかから始まる動き、そのような無数の動きによって、沿うように意識は変革を余儀なくされる。その変化の度合いには意識では寄り添うのに限界があるのではないだろうか。無意識は瞬時に変形し、形成していくように思える。

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 光がきれいに感じられて撮った。光はどんな感覚を人に与えるだろう。光と影を見ると、人は自然と意識を二つに分割させてしまう働きがあるように感じる。それは二色で分けられた絵画よりも強い形成変化の力なのではないだろうか。空気は瞬速で意識を通じさせる媒介であるように思える。脳のスピードの限界の速さで。見えないものは無意識領域を暗示させていると思える。単純だけど。見えているものは意識と混ざり合い、無意識の反応を変えているような気がする。このとき、自転車という記号は、いくつもの層に分かれ、ほとんど翻訳不可能な情報量になっていると思われる。人がものを「それ」と断じられないのは、芸術に限りがないのは、そのような動き、在り方によっている気がする。感覚として受容はできるが、それを分析しようとすると、とたんにどこかで文節になって途切れ、さら砂のように落ちていってしまうと思える。でも人は風景を、実感を、実感のままそれを他者に表現できる、変換して渡せる可能性のある力を持っていると思う。それをかたちに残せるというのはどういうことだろうか。 

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 鉢が割れている、同時に意識もどこか割れる。無意識はそのような動きをどこかで、遊び、蓄えているのかもしれない。無意識は不動のものに思える。遠いどこかの深い湖のように。意識が割れることは、無意識にとっては波紋の一つに過ぎないのかもしれない。葉が地面に乗っている。ぴたりと静まり返った海面に乗っているようにも思える。左の影は、何かの暗示として作用している。それが何かはまわりのものが決めるのかもしれないし、それが直接決めているのかもしれない。感覚は冷徹にサーチし、決定しているよう思える。ティッシュペーパーに見える白、浮いたような白は魅惑的だ。感覚にとってそれはどんな意味をもつだろう。言葉にはならないコミュニケーションが頭の中で起こっている。それは常に起こっている。止まらない。草の二本に伸びた細い線。鉛筆の線に似ている。意識を保たせてくれる。崩壊の危機にあるわけではないが。でも崩壊の危機にある時もそのような蜘蛛の糸のような細い線が、精神を救ってくれるように思える、無意識は大きく、どんな事象も掬い取ってくれるものに思える。総じての見え方も不思議で面白い。一つのかたまりのように感じられる。中は複雑に絡み合っているのだろうが。

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 単純なパターン、思考が麻痺する感覚がある。白い点が気になる。気になるというより救ってくれる。

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 自転車、人の関わる事物は、記号として複雑なイメージを連れていると思える。それを踏まえた上でのカゴというのが気になる。一体何を積んでいるのか。母への思いだろうか。ハンドルは父だろうか。地面に触れるタイヤはどうだろうか。回転、移動は、魅惑的だ。彫刻の範疇に思える。映像の動きはまた違う気がする。

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 垂れたブルーのビニール布。さまざまな繊維を合成する度に、無意識はそれに沿うように感覚を生んでいる気がする。それは何かの転用でつくられるのかもしれないし、全く未知の物質から成るのかもしれない。絡められたビニールホースが気になる。上に掛けられた繊維の所作も気になる。同じ動作でも、意識に働き掛けるものは別種であるかもしれないと思った。事はそう単純ではないように思える。感覚としては、黒が白に反転するようなことも起こるのかもしれない。 

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 畳み込まれたもの。感覚も言わずもがな畳まれる。飛び出た鎖。同じように意識も出るのだろうか。若干違うように思える。一部が隠れ、でも一部は身体の中に留まって様子を伺っているような。繊維が破れている。単純に精神も綻ぶのだろうか。そうではないのかもしれない。逆に修復される動きもあるのかもしれない。形体になることで形体からあぶれるものがあるように、意識は粘土のように変形を繰り返すのかもしれない。地面は海と繋がっている気がする。海はどっぷりと精神に繋がっていると思える。

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 落ちている花。落ちるという行為は精神にどのような感覚を与えるのだろうか。落ちる事で浮上する感覚というものもある気がする。花が落ちるとはどういうことだろうか。花は一体どんな記号なのだろうか。花の雄しべは?雌しべは?固定されているものなのか?それともバイアスに過ぎないのか?でもこの花はただ一つの掛け替えのない記号。安易に名前をつけられない。この花のことを記憶に残せるように。花と人は違う。

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 合流というのが気になる。意識の流れも合流して、分岐していくものであろう。それは個人に留まるものなのか?他者にエフェクトを与えるものなのか?穴とは一体どんなものなのだろう。考えるほど、穴の中に吸い込まれるようにわからなく、見えなくなる気がする。最初のイメージとはなんだろう。変化したイメージはどのくらいだろう。境界線はどこにあるものなんだろう。

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 毎回通る度気になるかたち。草のようにも見える。草のように見えるものと草とでは感覚に与える影響はどんな違いがあるのだろう。どちらも感覚に作用する点ではフェイクではない。無意識において真贋の差はないのかもしれない。円に繋がる染みが気になる。染みはそのまま意識につたわる気がする。ものにつたわった意識の色が変化すると言った方が正確なのか?下右の枯れ草のようなものも気になる。意識の注意を惹く点のようなもの、意識に切れ目を与えるようなもの。染みのように境界を曖昧にするもの。実景に対する考え方がそのまま表現されたものにも通用するかというと疑問だ。表現されたものにはそれぞれ独自の世界、様式がある気がする。空気のような意識を媒介するものの質が異なるからと思える。

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